旧HPテキストのみ 旧HPより抜粋
旧HPより抜粋
A中勘助とは
明治18(1885)年5月22日、東京西神田の岐阜今尾藩(3万石の竹腰家は尾張徳川家の付け家老)邸で、父勘弥と母鐘(しょう)の五男として生まれました。 長男・三男・四男は夭折。 勘弥は勘定方藩士、明治4(1871)年、廃藩置県により、翌年東京へ藩主と共に移住、家令として主家の財政再建に務めました。 その後、輸入商を営み、小日向に邸宅を建てます。 母鐘は病弱のため、勘助は伯母(母の一番上の姉)に育てられます。 幼少の頃は病弱のため銀の匙で粉薬を飲んでいました。 この『銀の匙』が本の題名となり、銀の匙は、現在、静岡市の中 勘助文学記念館に展示されています。
幼少、少年時代のことは『銀の匙』に詳しく記述があり、こんな話があります。 14歳年上の兄金一と勘助は子供の頃から犬猿の仲で、夕方帰り道、兄「何をぐずぐずしている」 勘助「お星様を見てたんです」 兄「ばか星って云え」と怒鳴りつける。 あわれな人よ。 何かの縁あって地獄の道づれとなったこの人を兄さんと呼ぶように、子供の憧憬が空をめぐる冷たい石を「お星さん」と呼ぶのが、そんなに悪いことであったろうかと。
17歳の夏、美しく寂しい友達の別荘(三浦半島)に過ごした時の話です。 2・3日別荘に京都から美しい若奥様(友達の姉)がやって来られた。 ・・ある晩、かなり更けてから月が上がるのを見ながら、花壇に立っていた。 幾千の虫たちが小さな鈴を振り、潮風は畑を越えて海の香と波の音を運ぶ。 ・・ふと気がついたらいつのまにか同じ花壇の中に姉様がたっていた。 ・・私はあたふたとして「月が・・」と云いかけたが、・・姉様は気をきかせて向こうへ行きかけてたのではっとして耳まで赤くなった。 ・・姉様はそのまましずかに足を運び・・「本当にようございますこと」とつくろってくれたので、心から嬉しくありがたく思った。 ・・月夜の花壇に立ち、「鈴を振り」とは鈴虫でしょうか、潮風が・・波の音を運ぶ。 その場に立ってみたいような素晴らしい詩人中 勘助の描写ですね。 初々しい青年の美しい年上女性へのそこはかとない思いが正直に綴られております。 (以下年齢は「数え年」表記です。 岩波書店の「年譜」によりました。)
神田柳森神社 中さんが伯母さんに良くおんぶされ行った神社
黒田小学校縁起 中さんが通った小学校 文京区水道橋
夏目漱石はイギリス留学から帰国。 坊ちゃんの松山中学の先生となり、その後第五高等校(熊本)から明治36(1903)年4月、第一高等校(東京)の講師に就任。 一高の二学年から東大にかけ勘助を教えています。 漱石「私の話をいつも窓の外を見ている学生がいる。 だが、良く聞いているようだ」と。 この学生は勘助のことです。 漱石は子弟の面倒身が良い人で、毎日のように学生が家に押しかけていたので、木曜日にだけの「木曜会」を作りましたが、勘助は距離を置いていました。
一高、東大時代の学友は、そうそうたるメンバーです。 藤村操は「人生は不可解なり」と華厳の滝で投身自殺をしました。 山田又吉は若くして亡くなり、岩波・安倍・勘助で遺稿を刊行しました。 江木定男は稼業は江木写真館、農林省の官僚となりますが、35歳で亡くなります。 定男は、関 万世(ませ)〔鏑木清方の築地明石町のモデル〕と結婚、長女妙子を勘助は自分の子のように可愛がります。
安倍能茂は哲学者であり、学習院大学学長を務められました。 小宮豊隆はドイツ文学者で東京音楽学校〔現東京芸術大学〕校長、三四郎のモデルと云われています。 野上豊一郎は英文学者で法政大学総長を務められ、野上弥生子の夫です。 尾崎放哉は自由律俳句の先駆者であり、放浪の俳人でした。 岩波茂雄は岩波書店創業者で勘助の全集を出版、小日向の中邸を買う等物心両面で勘助を支援されました。
萩原井泉水も自由律の俳人で湘南平に「海は満潮か、月は千畳光(かげ)を敷く」の句碑があります。 学友ではありませんが、哲学者『古寺巡礼』の和辻哲郎一家と作家志賀直哉とは、特に親しかった。
明治35(1902)年、兄金一は東京帝大医学科(東京大学医学部)を卒業し、子爵野村靖の娘末子と結婚しドイツへ留学しました。 ドイツ留学から帰国し、福岡医科大学(現九州大学医学部)の教授に就任。 順風満帆の金一は教授になって数年後の明治42(1909)年野村 靖葬儀に福岡から上京中脳溢血で倒れました。 福岡医科大学辞任。 体が不自由で時には痴呆症状や狂暴になり、末子、勘助に暴力を振るったそうです。 以後家の重荷を末子と勘助が担うことになりました。
勘助はいたたまれず、26歳から36歳頃まで、友人や知人、お寺などに寄宿する放浪生活を送りました。
野村靖は平塚に縁のある人で、長州藩士で吉田松陰門下であり、神奈川県令のとき、政府は土地の所有と売買を認め、地券を発行。 地券をめぐる争いで、平塚でも地主以下6人が惨殺された真土事件がありました。 靖は先祖伝来の土地を守りたい純真な農民の止むを得ぬ行動と理解し、事件後の処理、犯人の救命に奔走し助命しました。 靖はフランス公使、内務、逓信大臣を務めました。 小田原に別荘があり、大きな声で「勘助、勘助」と云い、中 勘助の良き理解者でもありました。 一方、金一夫婦の行く末を按じたのか、勘助によろしく頼むとお願いしていました。
勘助は、中家を担うなかで、収入を得たい。 それには詩作では難しいので散文を書こうと、明治45(1912)年 28歳の夏から秋にかけて、信州 野尻湖湖畔の石田津右衛門邸の二階で『銀の匙』を書き、漱石に原稿を送りました。 先生の返事が来ないので、尋ねると、 …先生はやや唐突に「ありゃいいよ」 …原稿が汚く読みにくいこと、誤字が多いこと、仮名が多いことへの非難の言葉。〔実は仮名が多いのは、勘助、漢字に好き嫌いがあるから仮名を多く使っていた〕と。 …『銀の匙』のようなものは見たことがない。 綺麗だ、細かい描写、独創がある …先生は「私も変人だが、中は随分変人だな」と『銀の匙』を激賞されました。
大正2(1913)年4月8日から6月4日まで東京朝日新聞に『銀の匙』が連載されます。 無名の青年がいきなり新聞連載ができたのは、ひとえに漱石の力であり、『銀の匙』に対する漱石の評価であったと思います。
一方勘助は『夏目先生と私』の中で、こう言っています。
「…この本への批判は先生が答えていたようだ …自分の性格から自分が望むほど先生と親しむことはできなかった。 むしろ疎遠だった。 また、先生の周囲に見かける偶像崇拝者になることもできなかった。 ただ、人間嫌いな私にとって、最も好きな部類に属する人間の一人であった。 そして先生は、私の人間でなく、創作態度、作物(作品)そのものに対して最も同情あり、好意ある人の一人である。」と。 また『しづかな流』のなかで「私は師を持たない…」とあります。 「師を持たぬ」こととは、どういうことか、私は長いこと、疑問に思っておりました。 その問いに明確に答えていただいたのが、岩波文庫の『銀の匙』の和辻哲郎の解説でした。
【 作者(中 勘助)は、おのれの眼で見、おのれの心で感じたこと以外に、いかなる人の眼をも借りなかった。 言い換えれば「流行」の思想や物の見方には全然動かされなかった。 この稀有の性格は、この作家の後の作品にも顕著に表れている。 『犬』『提婆達多』『沼のほとり』『菩提樹の陰』『しづかな流』『母の死』などすべてそうである。
作者はおのれの世界以外にはどこへも眼を向けようとしない。 いわんや文壇の動きなど風馬牛である。 だからまたその作品は文壇の動きにつれて古臭くなることもない。 25年前の作たる『銀の匙』は今の文壇にだしても新鮮味を失わないであろう… 】
※岩波文庫の『銀の匙』解説 和辻哲郎より
勘助は長い放浪生活に終止符を打ち、大正9(1920)年36歳 兄金一が発病後痴呆になったことを中心とし、親戚を含め長年にわたる家庭的紛糾が続いたが、勘助が生家の世話を引き受けることになります。
家の財政を立て直すため、小日向の家を岩波茂雄に買って貰い、大正11(1922)年38歳に赤坂表町に家を買って家族を移しました。
B中勘助を知る会の活動
平塚ゆかりの作家 中勘助を知る会は、平成25年9月、中勘助の文学的功績と平塚での足跡を市民と共に学び共に広め、平塚の文化振興に寄与することを目的として発足しました。
文学講座『しづかな流』の詩を読む
講師 初代会長 尾島政雄(25.11.5)
静岡 「中 勘助文学記念館」を訪ねて
見学と交流(27.3.17)
文学講座「中さんの散歩道」
居住地近くの松林(26.5.17)
平塚の家で詠んだ「ほほじろの声」の詩碑の前
中 勘助ゆかりの野尻湖&交流会(28.8.9~10)
詩集 「中さんの散歩道」発行
500冊(26.9.10)
作者 丸島隆雄氏 上演(なぎさふれあいセンター)
さらに 中さんを知ってもらうには!!
末永く存在する文学碑の建設が不可欠
多くの皆様のご協力により竣工出来ました!
1.平成29年5月31日 平成29年度総会「中勘助文学碑について」
文学碑建設の調査実施と文学碑建設のための事業積立金制度を決める。
2.平成29年6月~10月 文学碑 建設費調査
・大小様々な文学碑が作家の生誕地、作品の地にあり、最近の物は、外国産の石で碑文はブロンズ等ではめ込んだ
ものが多かった。
・記念碑を手掛ける2社から懇切丁寧に碑について教えてもらう。 2社に見積りを依頼したが、会社都合で
1社辞退。 中 勘助が平塚の豊かな自然を愛していたことを踏まえ1社より、小松石の直彫りの文学碑の
見積りを求めた。
当初は 200万円以上の額であったが、交渉の結果180万円となる。
3.11月~1月 文学碑建設を決める。 地元説明会開催、市内外より賛同者を募る。
・臨時総会(11月6日) 文学碑建設決定(小松石直彫り、建設費180万円)
・真鶴町の石切り場に行き小松石を決める(12月)
・地元花水、なでしこ地区説明会(12月、1月)
理解と個々の賛同を得る。 事業を広めて頂く賛同者を市内外から83名4団体にお願いした。
4.2月~3月 集中募金活動月間、公益市民活動ファンド審査
・2月1ヶ月間、募金集中月間実施 平成30年4月20日現在364名の寄付。
・3月市民ファンドの審査により32万円の助成金決まる。
5.4月~5月中旬 工事施工、 5月22日 竣工式
・桃浜公園内南西入口の隣接地において文学碑設置工事。
・中勘助の生誕日である5月22日(火)大安吉日、10時より桃浜公園内で行う。
・冒頭の碑文は中勘助直筆。 直筆は東京都市大学の木内英実准教授が、科研費基盤研究の過程において発見された
ものです。
尚、この『しづかな流』の冒頭の言葉を灘校の故橋本武先生は、「聖書の一句のようです」と・・
平塚ゆかりの作家 中勘助を知る会
会長 大蔵 律子
写真提供 土岐勝信氏
『銀の匙』の作家 中 勘助は、大正13(1924)年、40歳の時、平塚海岸(浜岳中学校東)に敷地150坪、建坪25坪の家を建て、その年の暮れから、昭和7(1932)年9月中旬まで、7年9ヶ月余り主に平塚に住みました。 その家は中 勘助が建てた生涯唯一の家でした。 平塚での生活は約500ページに亘る日記体随筆『しづかな流』に余すことなく描かれ、当時の平塚海岸地域の自然を詩情豊かに活写しています。 『銀の匙』を教材として国語の授業を行った神戸灘校の故橋本先生は、中 勘助の全ての刊行書のなか
で最も好きだったのは『しづかな流』で、特に冒頭の「しづかに時の過ぎてゆくのをみるのは しづかな流れをみるやうにしづかである」は、まるで聖書の一句のようだと記されております。 平塚海岸は温暖な地で、当時は別荘地帯であったことから、勘助は家族(病弱な母 鐘と兄 金一)の避暑避寒のため平塚に家を建てたと記されております。 「平塚ゆかりの作家 中 勘助を知る会」は、このご縁を平塚の文化的遺産と捉え、5年まえ平成25(2013)年9月に発足しました。 これまで講演会、文学講座、文学散歩、詩集の発行、ゆかりの地の視察などの活動をしており、更に平塚時代の中 勘助を広く知ってもらうには、末永く存在する文学碑の建設が不可欠であると考え、全国の皆様に呼びかけを致しましたところ、多くの皆様のご協力を頂き、更には平塚市民活動ファンドの助成金を得て、桃浜公園に文学碑を建設することが出来ました。 竣工式は中 勘助の生誕日(明治18年5月22日)の平成30年5月22日に盛大に行いました。 皆様に深甚のお礼を申し上げます。 誠に有難うございました。
建立された中勘助文学碑
往時の面影を残す月湘庵松並木
湘南平塚海岸
小説『銀の匙』で知られる大正から昭和にかけて活躍した作家、中 勘助の功績を伝える文学碑が先月22日、平塚市桃浜町の桃浜公園に完成した。 勘助は大正13年、40歳の頃に生涯で初めて家を建てたとされており、その場所が現在の平塚市立浜岳中学校付近だと云う。 7年9ヶ月の平塚での生活は『しづかな流』に多く書かれており、往時の平塚の自然や生活が鮮やかに描かれている。
左から土岐さん、大蔵会長、落合市長
文学碑は高さ約1m、幅約1.3mの大きさで真鶴の本小松石を使用。 『しづかな流』冒頭の「しづかに時の過ぎてゆくのをみるのは しづかな流をみるやうにしづかである」と云う一句が勘助の直筆で刻まれている。 建設したのは「平塚ゆかりの作家 中 勘助を知る会」(大蔵律子会長)。 同会は勘助の功績を文化的遺産として後世に残すべく平成25年に発足し、講演会、文学講座、詩集の発行などの活動を行って来た。 平塚時代をより広く知ってもらうべく、昨年から碑の建設を検討。 今年2月に全国に寄付を呼びかけたところ、364人から約165万円が寄せられた。 これに平塚市民活動ファンドより32万円の助成を受け、建立を実現させた。 今も残る勘助の息遣い 先月22日、勘助の生誕日に行われた竣工式には同会メンバーのほか、落合克宏平塚市長、勘助の妹の孫にあたる土岐勝信さんなど約100人が出席した。 大蔵会長は「平塚の文化的まちづくりとして将来に何かを残そうと建設を考えた。 こうして市民のみなさんと今日を迎えられて嬉しい」と挨拶。 落合市長は「市議時代に勘助について質問したこともあり感慨深い。 再評価の機運が高まれば」と平塚の魅力の1つになることに期待を寄せた。 土岐さんは「親族としても光栄。 多くの人が来てますます興盛となるように」と祝った。 朗読「糸の会」による詩の朗読も行われ、参加者らは文学に残る平塚の情景に思いを巡らせていた。 関連事業も多数 『しづかな流』の中には昭和初期のなでしこの花や野鳥といった自然や、物売りや着物などの庶民の生活、地曳や ”高麗寺の市” などの様子や愛犬「タゴ」の話が詩や随筆として詩情豊かに描かれている。 先月29日には、これらの足跡をたどり、各地で詩を朗読するイベント「中さんの散歩道を歩く!」が行われ、30人程の参加者が浜岳中学校敷地内の松林や、尼寺「月湘庵」などを回った。 黒部丘の和菓子店「杵若」では勘助が愛したキノコ、松露の姿を模した「松露まんじゅう」を制作した。 当時、防風林として多くの黒松が植えられ、現在もその名残が多くみられる海岸エリア。 昭和の初めは春になると松露がどっさりと採れたそうだが、今は全国的にも希少になってしまったという。 現在、市内4
つの図書館で『しづかな流』を借りて読むことができる。 文学という側面から平塚の魅力に迫っては。 ※本文は、6月8日発行の湘南ジャーナル(No.1816)から、転載させて頂きました。
除幕式模様
「中さんの散歩道」詩の朗読
関係者一同記念撮影
イベントの講師は ”知る会 ”のメンバーが務めた
月湘庵は今も地域住民によって保存
”松露” の文字は大蔵会長の直筆
小説「銀の匙」などで知られる平塚ゆかりの作家、中 勘助の文学碑が完成し、同市桃浜町の桃浜公園で除幕式が行われた。
中は大正末から昭和初めまで平塚に住み、随筆『しづかな流』では平塚海岸の自然をみずみずしく描いた。 文学碑は「中 勘助を知る会」(大蔵律子会長)が呼びかけ、364人の寄付などを受けて出来上がった。 真鶴町産の本小松石に『しづかな流』の冒頭部分が彫られている。 大蔵会長は「晩年、中さんは『ご縁ですね』と云う言葉を良く使ったそうだ。 平塚と中 勘助のご縁を将来の市民にも伝えられる文学碑ができた」と喜んだ。 ※本文は、5月25日発行の読売新聞(地域版)から、転載させて頂きました。(2018年)
(以下に1~4回の読書会の模様を掲載)
ごあいさつ
平塚ゆかりの作家 中勘助を知る会
会長 大蔵 律子
読書会は、平塚の文化財産である『しづかな流』をより深く知るため、年4回ほど行います。 平成30年度(2018)は2回行いました。 講演会や文学散歩などと合同で行うこともあります。 読書会では朗読を聴き、解説を行い、感想などを話し合い、分からないことは、みんなで調べる自主的学習会です。 そのなかに新しい発見があります。 読書会を重ねるごとに『しづかな流』の新しい世界が広がっていきます。 気楽にご参加ください。
C読書会のご案内
「千鳥の話と浜辺の生活」
大蔵会長・挨拶
●日 時: 令和元年7月19日(金) 10時~11時30分
●会 場: ひらつか市民活動センター C会議室
●挨 拶 会長 大蔵 律子 ●司 会 亀谷 中行
●朗 読 甲斐 千秋 吉柳 恵子 ●解説 飯尾 紀彦
●閉会挨拶 副会長 宮川 利男
☆席上、大蔵会長から以下の挨拶がありました。
☆「中さんの散歩道」を平塚の観光コースに選定頂ける様、準備を進めつつあります。
☆佐賀県にある『虹の松原』、ここにも「松露まんじゅう」が有りました。
杵若さんの「松露まんじゅう」も観光地名産となる様に願いたいものですね。
☆美人画で知られる日本画家・鏑木清方の代表作「筑地明石町」が東京国立近代美術館にて公開される模様。(11/1~12/15)
※読書会は、内容が素晴らしく、中 勘助の世界へ引き込まれる思いが致します。 是非、お時間のある方は、ご参加ください。 読書会は重ねるごとに『しづかな流』の世界が広がって参ります。
次回、第5回読書会は 「中さんの散歩道」を歩きます。 10月11日(金)午前中
1.中さんの散歩道
中さんの散歩から、平塚海岸地域の多くの素晴らしい詩が誕生しました。
朝夕の散歩は、1日のうち最も幸福な時と。
2.千鳥の話 詩 「千鳥の卵」「われら千鳥にてあらまし」
メダイチドリ 撮影/ 岡根武彦氏
3.浜辺の情景 海辺の描写 詩 「時化すぎて」「夜にして海辺にたてば」
撮影/ 田中克彦氏
「海辺の描写」について、お話をします。
①「辛みを帯びてきた太陽」辛みという味覚表現が見事に真夏の太陽を表現しています。
②「わたしはなみうちぎはの 呼吸が好きである」 穏やかな寄せては返す波を呼吸と捉えての表現ですね。
③一方、時化の後の波を「岸を どよもす 波の音」と言っています。 中さんならではの感覚表現が随所にあります。 文字で一幅の名画を描ける人です。
4.浜辺の生活
(1)地曳 詩 「朝網」「網引」
平塚海岸では400mおき位に地曳が盛んに行われ、多種多様な魚、蟹まで獲れました。
(2)昭和初期平塚海岸の生活
①中さんの1日: 朝食後散歩、仕事(読書・執筆)、昼食(紅茶・パン)午睡(稀)だが、仕事、散歩食前入浴(あると良い)、夕食(肉又は魚一品・野菜・麦飯)時には少量の酒 くつろぎ、仕事、睡眠(9時半、10時)
②買物: 爺さん婆さんが野菜など売りに来た、御用聞き、3坪の家庭菜園、地曳、駅北側商店街
③お手伝いのまんさん料理通、週一回パン焼く
④家事井戸、炭マキの時代だが、石油コンロあり、風呂の水汲み、掃除、洗濯全て手仕事
以下に読書会模様を、スナップ掲載致します。
虹の松原にもある「松露まんじゅう」
飯尾さんによる詩の解説
熱心に聴き入る参加者
吉柳さん詩の朗読
吉柳さん・甲斐さん朗読と 飯尾さん解説
飯尾さん・吉柳さん 詩の詠み合せ
「二つの詩の世界」 ”松籟と軽妙洒脱”
オオルリ 撮影/ 岡根武彦氏
●日 時: 2019年4月5日(水) 10時~11時30分
●会 場: ひらつか市民活動センター AB会議室
●挨 拶 会長 大蔵 律子 ●司 会 吉柳 恵子
●講 演 飯尾 紀彦 ●朗 読 甲斐 千秋
●閉会挨拶 副会長 宮川 利男
1.作家であり詩人 中勘助とは
詩人の魂 ・「作者(中勘助)はおのれの眼で見、おのれの心で感じたこと以外に、いかなる人の眼も借りなかった」
和辻哲郎『銀の匙』岩波文庫解説より
孤高の人 ・「流行」の思想や物の見方には全然動かされなかった。 おのれの世界以外にはどこへも眼を向けようと
しない。 いわんや文壇の動きなど風馬牛である。 和辻哲郎『銀の匙』岩波文庫解説より
・多い往復書簡は、小宮豊隆、岩波茂雄、志賀直哉、和辻哲郎など
学識の人 ・古今東西の文明に深い造詣を持った人。 没後静岡市にトラック2台分の蔵書寄贈
情の人 ・子供、タゴ、鳥、植物など、か弱いものに優しい眼差しなど
放浪時代 ・20代後半~30代半ば 友人、知人、神社社務所、寺院庫裡などに寄宿
40代、平塚で生涯一度だけ家を建てる。
2.二つの詩とは
当時の平塚海岸地域は、須賀地域を除き黒松林一帯のなか、特産の桃畑や別荘、畑地などが点在しており、自然が豊かであった。 中さんは朝夕の散歩が大好きで多くの詩が生まれました。 その詩の中で、松濤の環境のなかで自然や動植物を詠った詩が多くあります。 一方孤高の人と言われた中さんでしたが、意外と軽妙洒脱な詩を多く詠んでいます。 今回、平塚海岸の豊かな自然を詠った詩を「松濤の詩」とし、愉快な楽しい詩を「軽妙洒脱の詩」として紹介しました。
3.「松濤の詩」から 鷺
コサギ 撮影/ 劔持瑞穂氏
※当日は「鷺」でなく「はこべ」「わが宿の」「瑠璃鳥」「ほほじろの声」「海辺の野を行けば」「名もなき思ひ」
を紹介しました。
4.「軽妙洒脱の詩」から 朝網
提供 大磯町郷土資料館
※この他「尼さんかはいや」「高麗寺の市」「はうれん草」「恋はなあ」 を紹介しました。
「タゴの話」
タゴ
●日 時: 2月20日(水) 10時~11時30分
●会 場: ひらつか市民活動センター A会議室
●司 会 吉柳 恵子 ●朗 読 甲斐 千秋
●紙芝居上演 大蔵 律子 ●解 説 飯尾 紀彦
☆タゴはクリスマス生まれ、5年2ヶ月の命でした!!
タゴの誕生日は大正14年12月25日 昭和5年2月4日死亡と『しづかな流』で推定できます。
☆中さんはタゴの母親を知っていた
中さんが海岸を散歩していたとき、孫と親子の犬を連れた婆さんにあった。 子犬が中さんにまつわりつき、街近くまで来ていなくなった。 後日ある家に飼われていることが分かり、その犬がタゴの母だ。
☆小さな友達が毎日のように、タゴの訓練に来てくれました。 中さんタゴを可愛がらない
近くの別荘住まいの少年と中さんは友達になりました。 その訓練の時、「中さんちっとも可愛がらないだもん」「あなたがいないとき、可愛がっている」と、タゴを抱き上げ頬ずりをして見せた。
☆中さんの訓練はスパルタ訓練。 時にはパンチも
タゴは厳しい訓練に応え、教えられたことをじきに覚えた。 中さんの訓練、たとえばこんな具合だ。 小屋に入らないので、首と尻を押し込み、隠れ、出てくると鼻パンチを見舞った。
☆どんなに疲れていても懸命な看病を続けた。
中さんは病になったタゴに特製スープを作ったり、懸命な看病を続け、薄皮をはがすように回復した。 たいがいの人間よりは賢いタゴを愛している。 人間社会のようないらざる煩いがない。
平成27年平塚紙芝居の会 丸島隆雄氏に「中さんと
犬のタゴ」の紙芝居を制作依頼し上演を行いました。
この年、県手づくり紙芝居コンクールで特別賞を受賞
「しづかに時は流れて~平塚の四季」
●日 時: 10月5日(金) 10時~11時30分
●会 場: ひらつか市民活動センター A会議室
☆あいさつ 会長 大蔵 律子 司会 吉柳 恵子
『しづかな流』は、平塚の文化財産です。 かって、こんな美しい日本語で平塚を描いた人がいただろうか、勘助は詩人です。 平塚時代生涯で最も多くの詩を遺しています。 その瑞々しさは、今でも、心に染みます。
また、以下の挨拶がありました。
☆平塚の文化財産である『しづかな流』をより深く知るために読書会を行います。
☆10回開催し、年4回を予定しています。 但し、今年は2回で2回目は来年2月です。
☆読書会では朗読を行い、感想などを話し合い、その中で新しい発見があります。
☆分からないことは、みんなで調べます。
☆読書会を重ねるごとに『しづかな流』の新しい世界が広がって参ります。
1.朗読 甲斐 千秋
「しづかに時の過ぎてゆくのを…」 (冒頭の句)
「都留の山道」「高麗寺の市」「わが宿の」「ほほじろの声」等、朗読…
2.解説 飯尾 紀彦
・勘助の親友 和辻哲郎は「 中勘助はおのれの眼で見、おのれの心で感じたこと以外にいかなる人の眼も借りなかった。…」 と評価されています。 この言葉に中さんの詩人としての魂が込められています。
・リズム感がある、調子の良い、歯切れの良い軽妙洒脱な詩が幾つもあります。 「神田の生まれよ」と言っているようです。 「高麗寺の市」「はうれん草」「朝網」「尼さんかわいや」など
・難しいのは、昔の言葉づかい、旧仮名遣い、「やうに⇒ように」「あひだ⇒あいだ」古語、枕詞…
・「言葉」の音の響きを大事にしているところ、自然と音の良い言葉がこぼれてくるのでしょうか?
・朝夕の散歩がなにより大好き、散歩により多くの平塚海岸地域の自然を詠った詩が生まれました。
・『しづかな流』に登場した動植物 〔植物〕松露、撫子をはじめ128種 〔野菜〕法蓮草、蕪をはじめ83種 〔昆虫〕蜜蜂、赤蜻蛉をはじめ48種
〔魚貝〕鯛、蜆をはじめ68種 〔家畜等〕馬、犬をはじめ15種 〔鳥〕瑠璃、千鳥をはじめ65種 〔その他〕亀、昆布をはじめ41種 計448種
・東西の文明、自然、動植物に造詣が深く、特に鳥類にはことのほかこだわりを持っています。
・か弱いものに優しい眼差しで詠い、花や鳥を擬人化して恋人のように詠っています。
以下に読書会模様を、スナップ掲載致します。
Ⅾ中勘助の散歩道
平塚時代の中勘助40歳代
以下の散歩道を歩く画像においては、カーソルを画像に位置づける(ポイントする)ことにより、キャプションが表示されます。
20名の参加者が花水公民館に集まった。先ずは大蔵会長の挨拶
話しに聞き入る参加者
行動予定ご案内。コースは海辺を含め2.5Km弱、楽しみながら参りましょう!
文学碑の説明
説明に聞き入る参加者
文学碑前にて詩の朗読①
文学碑は昨年5月22日(中さんの誕生日)に、364人の寄付と平塚市民活動ファンドで建立。 真鶴の本小松石を使用し、揮毫は中さん直筆の『しづかな流』の冒頭の言葉。
文学碑前にて詩の朗読②
中さんの散歩道ウォーク①
菫平南公園にて詩の朗読①
菫平南公園にて詩の朗読②
菫平南公園にて詩の朗読③
中さんの散歩道ウォーク②
昔、菫平南公園を含む湘南海岸一帯は黒松林。 松林に瑠璃・ホオジロ・鷺など多くの鳥が生息していた。 詩「鷺」の中で、その鳴き声は「石謦(せっけい)」(中国の石器時代からある平たい石の打楽器)の音に似ていると云う。
中さんの散歩道ウォーク③
陸橋より眺める龍城ケ丘プール跡地
光り輝く湘南の海
菫平海岸にて植物観察
海岸の植生を話す大蔵会長
台風19号接近にて波高い菫平海岸
海岸の多くの植物は、根を水平に張るか、ボウフウのように牛蒡(ゴボウ)根である。 波は台風の来襲を知らせるかのように高かった。 詩「時化」の朗読は台風一過のことであり、波はゴーゴーと吠え、空は雲一つない青空、箱根・伊豆・大島がくっきり見える情景を詠っている。
砂丘の道を虹ヶ浜海岸へと歩く
中さんの散歩道ウォーク④
中さんの散歩道ウォーク⑤
虹ケ浜海岸にて、「朝網」「網引」を朗読。
当時、平塚海岸では、盛んに地曳きが行われていて、中さんは浮きが浜に近くなった網から見て廻ったと。 「朝網」は調子の良い詩であり、『よいやな よいやな』と、みんなで大きな声を掛けあった。
月湘庵の入口にある「月湘」の碑
月湘庵系譜の碑
往時の佇まいを感ずる月湘庵の庭
『尼さんかはいや』詩の朗読
月湘庵の御本尊様
総代より寺院の由来を拝聴
総代に初代庵主の「月湘」の碑、並びに系譜の碑をご案内頂いた。 尼さんの托鉢修行の情景を詠った「尼さんかはいや」の詩を朗読。
寺院に上がり御本尊様にお参りをして、総代より寺院の由来を拝聴。 副会長より本日の行程終了の挨拶を頂き解散。 その後、三々五々、中さんゆかりの松露を饅頭にした『杵若』を訪れた。
平塚時代の中勘助40歳代
以下の散歩道を歩く画像においては、カーソルを画像に位置づける(ポイントする)ことにより、キャプションが表示されます。
桃浜公園中勘助文学碑前に参集
中勘助文学碑に関する説明
糸の会 朗読「しづかな流」
浜岳中学校 正門
往時の面影を残す浜岳中学校松林
糸の会 朗読「名もなき思ひ」、他
中さんの散歩道 ウォーク
松露まんじゅう「杵若」店頭
老舗の風情を感ずる店内
月湘庵の佇まい
往時の風情を残す月湘庵松林
糸の会 朗読「尼さんかはいや、他」
湘南平塚海岸
湘南平塚海岸 ウォーク
糸の会 朗読「網引」「朝網」
湘南平塚海岸 浜ひるがお
江ノ島訪問を望む
小田原・箱根方面を望む
〔過日 の案内サンプル〕
申込用紙のダウンドーロは、こちらをクリック <21KB>
E詩集しづかな流
この詩集は、平成26年(2014)9月、わが会「平塚ゆかりの作家 中勘助を知る会」が発行した「詩集 中さんの散歩道『しづかな流』より」に掲載した詩から選択したものです。
わが会の初代会長 文芸評論家 故尾島政雄氏は、 中勘助は作家であり、詩人であると話されておりました。
『しづかな流』には別稿を含め、詩191編が収載されており、生涯で平塚時代一番多くの詩を遺しております。
詩 「たなばた」
「おほかたを 思えばゆかし 天の川けふの逢瀬は うらやましけれ」 紫 式部
柿本人麻呂、大伴家持、紀 貫之、和泉式部、西行、藤原定家など古代から中世にかけ、多くの歌人が七月七日の夜、天の川で牽牛と織姫星が出会うという雄大なロマンチックな物語をモチーフにした和歌を多く残しています。 その時代の夜空は街でも星がこぼれるように見えたそうです。
中さんが詠んだ「たなばた」の歌から二十五年後、平塚では戦火の焼野原から街が立ち直り、その復興を祝った翌年、昭和二十六年より七夕まつりが始まりました。 現在では、仙台と共に日本を代表する七夕まつりとなりました。 平塚は飾りの豪華さと夜景の美しさが特徴です。
詩 「夜にして海べにたてば」
詩 「瑠璃鳥」
・・まはりの林に朝を迎える小鳥たち、雀や、鶏や、雲雀など、ききなれた囀りのなかになにかひとつきはだってほがらかな声がきこえたやうな気がした。 私は手を休めて聞き耳をたてたがそれなり聞こえないのでちょっと そら耳かしら と思った。 と、また聞こえた。 瑠璃だ! まだかた言みたいに二声三声鳴くのだが、声でわかる。
それにそうした可愛いかた言もちゃんとききおぼえがあるのだ。 その声は遠くなり近くなりしながら松のあひだをさまよってゐる。 私はそはそはして、見えまいと思ひながらも林のなかをすかして見たりした。 私がはじめてこの鳥をきいたのは、十五年も昔のこと、・・ ※オオルリ 撮影/岡根 武彦氏
詩 「書斎の窓のした」
「櫺子格子」
「連子格子」とも。 細い角材を縦に並べ、その格子間の空きを格子の見付き寸法の1~3倍ほどとった格子。 建物内部の採光と通風を確保し、外部からの侵入と視界を制限できる。
詩 「帽子」
相州 平塚海岸通り 大正十年 写真提供/大磯町郷土資料館
中さんがこの道をへろへろ帽子をかぶり歩いている姿を思い浮かべます。
F会則
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以上です。
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